生徒会室に向かう廊下の途中で、近来ないほどの思考の「大転換」があった。
哲学的見解の転換は、何の予感もなく突然訪れた。
「ああ、そうなんだ!」
ポンとひざを打つようにわかる。
そして、その後「落ち着いて」周囲世界を見渡すと、何で今までこのことに気づかなかったの
か、不思議でたまらない。
これまでの人生において、すべては「そう」であったのに、そして、すべては「そう」見えるのに、
何で「そう」見えなかったのか、不思議というほかない。
僕は7年ほど前に、「未来はない」ということを明晰かつ判明に腹の底から確信した。
「ない」とは、「ない」という記号が指し示すあらゆる意味で「ない」んだ。
断じて「まだない」のではない。それについて語ることさえできない絶対無なんだ。
「明日の天気」とか「今晩の予定」とか、語れそうな気がするのは完全な錯覚であって、
それは未来について語っているわけじゃなく、ただ「未来に起こると想定したあるもの」は
未来に起こることではなく、現在そう考えているだけのことなんだ。
「でも、未来に何かが起こるだろう?」
そういうのも、同じ錯覚。
「なぜなら、ルルーシュ。それも現在考えているだけのことなんだから」
今のところ生徒会室にはルルーシュしかいない。
ピンクのパンティーをかぶっている。 ←【初体験】参照
いつもの僕ならばそんな愚挙を見過ごすことはできないが、今日はそれどころじゃない。
こうした議論がどうしても通じない人がいる。まあ、ほとんどの人がそうだ。
何でだろうと不思議で仕方ない。とても簡単明瞭なことなんだけど。
未来の事象を今とらえることはできず、
僕達はせいぜい現在の想いで代用しているに過ぎないんだ。
「でも、明日になればわかるんじゃないか?」
そう、こう反論する人もいる。
明日になって予測した通り寸分違わず事象が実現したとしても、
それはもはや「未来」じゃない。
現在の事象に変身してしまっているんだ。
ポイントは、未来の事象を「未来の事象のまま」生け捕りにできないということなんだ。
当たり前ではないかと言われれば、これほど当たり前のことはないと思う。
そして、これほど不思議なことも他に見つからない。
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「相変わらず、お前は俺をイラッとさせるな。ウザク」
「カレンのパンツかぶっている君に言われたくないよ」
「なぜカレンのものだと分かる」
「そんなことよりそれ脱ぎなよ。今日生徒会のミーティングあるから彼女来るぞ」
「学校来てるのか?」
「ああ、今日は体調がいいみたい」
スザクはカレンの病弱設定を信じている。
ていうか、ルルーシュとか一部の人間以外は皆信じてる。
カレン自身もあまりに皆が疑わないので実は微妙に気まずい。
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これは言葉の問題じゃない。やはりこの世界が「こうなっている」としか言いようがない。
未来を知覚できる世界は想像不可なんだから。
こうした考えはこの7年間で次第に固まって揺ぎ無いものになっていた。
面白いもので、哲学的な「揺るぎなさ」は、いかに反論されてもますます揺らぎないものに
なっていく。
こんなこと実は誰でも知っている、だが皆錯覚に陥っている。
なぜか?
みな世界をよく見てないから、怠惰だからだ。
「言葉」という妖怪に騙されて世界をよく見ることを放棄しているからなんだ。
例えば、未来が「来る」と言うが、「どう」来るかとくと観察してみるといいよ。
ジュースをゴクゴク飲んでいるとき、次のゴクは「どう」来るんだろう?
僕達は未来が「来る」と語るとき、空間と運動と物体のイメージにすがっていて、
それ以外のことはなにもしていないことが分かるんじゃないかな。
5分後の休憩時間は5分後にこの駅に到着するはずの電車のように、いまどこかに「ある」
わけじゃない。1秒後の「次のゴク」はいまどこかで待機しているわけではない。
つまり、今この宇宙の隅々を探してもどこにも「ない」んだ。なのに、1秒後、5分後にそれが
生ずるんだ。
まったくもって不思議なことじゃない?
だけど、ほとんどの人は例えそう言っても、
空間と運動と物体のイメージのなすがままにさせている。
そして、それらの煙幕を通して世界を見ることに安んじ、未来が「来る」ことを疑わないんだ。
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「ウザいよな。やっぱり」 ←ルル山
「同意せざるを得ない」 ←リヴァル
「だれだよ、今日スザクにミーティングのこと知らせたの」
「どっかから嗅ぎ付けたんだろ」
「女性陣はまだ来ないのか?」
「こねぇな・・・。それよりそろそろ頭のパンツ、カレンが来る前に早く脱げよ」
「しっくりくるんだよ。相性がいいみたいだ俺たち」
「無機物と・・・。生身との相性じゃないのかよ」
「かぶっていいのは、かぶせられる覚悟のあるやつだけだ」
「早く脱げ!バレるだろ!」
「お前は責任をとらなければならない。奇跡の責任を!」
「巻き込むな!」
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こうした未来観を構築しながら、僕はずっと過去は「ある」と思ってきた。
もちろん、単純に「ある」わけではない。
だが、過去は空間ではないのだから、僕達の背後に「延びて」いるわけではない。
ビックバンからの150億年に及ぶと言われる時間は確かに「長い」んだけど、
空間的に長いわけじゃない。しかし、僕達は空間的長さしか表象できないんだ。
だから、実は歴史年表もあらゆる変化を示すグラフも間違いなんだ。
変化とは時間における変化なのだから、時間を空間における線分として表した「変化」は、
変化自身を表したものではなく、ただの幾何学図形なんだ。
そこまでは、これまでよく考えてきた。
しかし不思議なことにここに留まっていて、過去は未来とは違ってまったく「ない」と言う発想
には至らなかった。
たしかに、想起は予測と異なって、過去に「触れている」という感じがある。
予測している明日の日の出は単純に「ない」のだが、
想起する昨日の日の出は確かに「あった」という気がする。
しかし、想起の対象としての過去の事象が「あった」といっても「どのようにあった」のか、
探ってみると実は何も分からないんだ。
過去の事象は未来の事象に比較すると、僕達の認識において優位に立つだけであって、
存在においては少しも優位に立たない。
とすると、過去もまた未来と同じく「ない」と言ったほうがいいんじゃないのか。
このことが生徒会室へ向かう廊下を歩いているときに、ふっと思ったことなのだ。
これは「感じ」の転換と言ってもいい。
世界は絶えず消えていく。ただ、地球とか、ブリタニアとか、中華連邦とか、ゲットーだとか
様々な物体がしばらく「ある」かのような相貌をしているだけだ。
しかし、すぐ分かるように、そうした「一つのもの」の状態は絶えず変化している。
いや、例えまったく状態が変化しなくても、ある事象の状態1とその1時間後の状態2は
「1時間後」であると言う理由だけで、同じじゃない。
僕が一歩進めるごとに前の一歩は掻き消えている。
そしてその消えた一歩は世界のどこにも「ない」。
そうだ、この広大な学園は刻々と消えていくんだ。
いや、地球も、太陽系も、銀河系宇宙も、丸ごと崩壊していくんだ。
凄まじいもんだ。
このような巨大な塊が、音も立てずに刻々と崩壊していくんだから。
僕は今無と無の間を歩いているんだ。なんて儚いことなんだ!!
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「なあ、マジでウザいんだけど。」 ←ルル山
「ホント、どうしたんだろ今日は?いつになくひどいぞ」
「今日テストの返却日だったじゃない?スザク君、答案受け取った瞬間、何かを悟った
ような顔してたよ」 ←シャーリー
「現実逃避か」
「なーる」
「でも、いやに哲学的よね。ニーナ、彼が何言ってるか分かる?」
「えっと、過去も未来も無いんだから今現在のテストの結果なんて気にしなくてもいいんだ、
って納得したいんだと思います。多分・・・」
「でもホント以外です。スザク君体育会系だと思ってたから、こんな哲学的なこと考えれる
なんて」 ←カレン
「それって、今まで単なる体力馬鹿だと思ってましたってことかなぁ~」 ←ミレイ
「い、いえ、違います!そういうつもりで言ったんじゃなくて、ホント意外だなぁってだけで・・」
「頭の使い所が何か、悲しいですけどね」
「同意せざるを得ない」
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僕は今まで、自分はこの150億年もの時間と150億光年を超える空間のただ中で
かげろうのようにふっと息をついて無に帰すのだと思い、
その虚しさと恐ろしさに戦慄していた。
だが、このすべてはどうも錯覚のようだ。僕の消滅とともに、僕を包み込む(その状態の)
世界もやはり完全に消滅してしまうのだから、僕が死んだ後に「残る」ものは何も無い。
ただ、次々に新しい出来事が(なぜか)発生し、(なぜか)それらも次々に消滅していくだけ
なんだ!
考えてみれば、ビッグバンからいままで150億年の時間が流れたとしても、そのすべては
消えてしまったんだ!そして、いまや宇宙のどこにも絶対的に「ない」んだ。
ルルーシュやリヴァルのテストの点数に勝っても負けてもどうでもいい。
例え、端から勝負にすらならないとしても気にならない。
競うこと、勝とうとすることは醜いと改めて思った。
僕に呆れている皆の顔を何の興奮もなく眺めながら、ただ僕に訪れた哲学上の新しい
「発見」に興奮していた。
スザクはやればできる子なんです。
おわり